「神様、やりすぎだよ」。気仙沼市職員の3.11の証言

気仙沼市が2019年3月に発行した「東日本大震災 災害対応記録集」は、市職員や市民など365人の発災直後の証言をまとめました。昨夏に配布されてから、ようやく読み終えましたが、新聞記者として取材して歩いた私も知らなかった事実や思いが書かれていました。

記録集は300部だけの発行のため、その内容は市のホームページでも公開しています。ボリュームがあるので、概要版を全市民に配布することを提案しましたが、市からは「考えていない」という回答でしたので、市職員213人の証言の要約版をまとめてみました。PDF版はこちら→気仙沼市職員の震災証言集概要

家族の安否が分からないまま仕事を続けたり、避難所対応が3カ月も続いたりと、職員も限界だった中、全国から駆け付けたボランティア、応援職員、市民の協力に感謝する思いがつづられています。避難所の格差、支援物資の管理や配布など、さまざまな課題も浮き彫りにしています。

気仙沼市民の皆さんに、市職員がどんな思いで仕事をしていたのか知ってほしいです。また、自治体関係者には今後の災害の備えるための教訓を学んでほしいです。なお、市は復興記録誌と復興記念誌もそれぞれ発行する予定です。

※このページで使用している震災の写真は「一般社団法人協働プラットフォーム」の震災アーカイブからの出典です


気仙沼市東日本大震災災害対応記録集 (職員証言の要約版・今川まとめ)

 

災害発生直後の対応 「地獄を見ているようで涙が止まらなかった」

・地獄を見ているようで涙が止まらなかった。防災センター屋上から見た光景は生涯忘れられない

・幸町の都市ガス工場に火が燃え移る危険があり、市立病院の患者を避難させるか検討した。海から陸へ炎を煽っていた風が逆方向に変わって市立病院に影響は無かった

・2日目には市長、消防庁とともに被災現場を見て回った。現場を見なくては効率的な対策は立てられない

・ドローンにカメラを付けて飛ばしたらもっと正確な情報が得られたと思う

・国が沖合に設置したGPS津波波浪計のデータにアクセスできなかった。苦労して作り上げた津波観測システムが電源と通信網の喪失により役立たなかった

・震災直後はこの世に神はいないと思った。でも、時間が経つと大きな災害が他人事ではなく自らの身に降りかかるものだと人間に分からせたくて、この災厄をもたらしたのではと思うようになった

・「津波てんでんこ」を家族で約束していたおかげで、業務に集中することができた

・震災の夜、ワンテン庁舎に避難していた妊婦の陣痛が始まり、道路のがれきを押し分けて市立病院に運んだ。あの修羅場で新しい生命が鼓動していた。人間の営みの深さを感じた

・震災の翌日以降、金庫などの拾得物がたくさん運ばれてきた。拾得物の調書をつくって市内共通様式としたことで、持ち主を探しやすくなった

市役所機能 「情報を求めて多くの市民が来た」

・停電と断水で水洗トイレが使えなくなり、湧水を汲んで使えるようにした

・震災直後は情報を求めて多くの市民が市役所に来た。大きな地図に被害状況や浸水エリア、交通機関の状況などを書き込んで情報提供した

・行方不明の家族を探すために多くの市民が市役所に来た。紙を渡して探している人の名前や伝言等を書いてもらい、壁に張りだした。壁はすぐにいっぱいになった

・2週間後ころには避難所運営職員が交代のタイミングで避難者名簿を持ち帰る体制ができて落ち着いたが、電話も復旧したことで安否の問い合わせが膨大になった。深夜まで電話が鳴りやまなかった

・ワンテン庁舎の発電装置は1階の電源盤が浸水して使えなかった

・翌日から東北電力の電源車が配備され、市庁舎の危機管理課などを優先して電力供給した

・バッテリー切れのため不通になっていた庁内の内線電話は電話交換機に小型発電機を接続して通話可能とした

・庁舎に水道が復旧したのは3月15日、電力は3月16日だった

 

災害対応と復旧「会議をオープンにして情報共有できるようにした」

・多くの職員が市役所に泊まり込んで災害対応に当たった

・朝晩二回、災害対策本部の合同会議を開き、その都度、記者会見をして情報発信した。役所でも早朝と夕方に幹部会議を開いた。会議は職員にオープンにして情報を共有できるようにした

・策定したばかりの総合計画が土台となった復興計画づくりが進められた。自治体が常にビジョンや目標を持つことの重要性を教訓として得た

・生活再建支援金の支給には居所の確認が必要だったが、住民票を移していなかった被災者もいたため、水道や電気支払い書で支給できるようにした

・ガソリンの給油を制限して緊急車両を優先させた。一般市民へはガソリン券を作成し、透析患者など緊急度の高い方へ配布した

・罹災証明は1度に5枚発行できるように工夫した。十分と思っていたが、義援金申請などコピー不可のものもあり、はじめから10枚くらい出しておけば被災者も市役所も負担を軽減できた

・罹災証明発行システムを独自開発したことで、電算システムを使える2~3台のパソコンだけでなく、10台以上で発行手続きが行えるようになった

 

避難所 「行政が何でもしてしまうことは良くない」

・交代要員が確保できず、3カ月にわたり避難所担当をした職員もいた

・防災計画では福祉関係の部署が避難所の開設運営に割り当てられていたが、災害救助法への対応などその他の仕事がありすぎた。できるだけ避難所の近くに住む職員、震災後すぐに動かなくていい企画政策課や商工課、観光課などの職員を動員した

・避難が長引いて、避難所にプライバシー保護のための衝立を設けようとしたとき、荷物をどかしての作業もあって簡単ではなかった。避難所を統合する際も増えた荷物の保管場所が大変だった

・全国の自治体から応援に来た職員は、避難所ごとに担当する自治体を決め、交代でできるだけ長くお願いした

・職員はいずれ本来の業務に戻さなければならない。地域住民が避難してきた方とルールを決めて運営する避難所が今後のモデルとなる

・避難所の極限状態に置かれた集団では、特に他人が優遇されることに対して激しいクレームが生じることを実感した

・停電により、避難所の浄化槽の菌が死滅することが心配だった。寒い時期だったので大丈夫だった

・避難所の運営は季節的な影響を考慮してほしい

・散髪ボランティアがうれしかった

・福祉避難所を指定していなかったため、休所していた保育所を臨時に福祉避難所として特に配慮が必要な人を受け入れた

・避難所の名簿は住所、氏名、生年月日、性別などの情報が揃っていると保険や税務の業務にも共通して利用できるのではないかと感じた

・避難所の体育館をロープで4エリアに分けて「〇丁目」とし、日によって食糧配分の順番を変えることで長い列に並ばなくてよくなったり、荷物の送り先が指定されることで届けやすくなったりと機能した

・住民と行政の間に立ってくれるキーパーソンを早く見つけ、避難所の運営に関わってもらうこと、その運営の中に女性を入れることが大切だ。女性が入ることで炊事作業や食事提供がスムーズになり、子ども、女性、高齢者に配慮した細やかな対応ができるようになる

・「感謝の受領証」というアイデアを教えてもらい、ボランティアに来た団体や個人が帰る際に感謝の気持ちを込めて交付した

・他の避難所との情報共有がない中、手探り状態で在宅避難者への物資提供などを実施した。避難所運営の責任者会議で情報共有できればよかった

・本部からさまざまな食糧が届くようになったが、水道が出ず自炊が出来なかった

・市民のためにと何でも行政が何でもしてしまうことは、かえって市民のために良くないということが分かった。動ける人を募り、班を編成して被災者自ら運営してもらうように工夫したことで、気を紛らわすことができトラブルを防止することができた

・避難所の健康・衛生管理には網戸、温度計、湿度計なども必要だった

・もっと寒い時期だったら避難所や職員の執務環境は劣悪だった

 

物資・支援 「中間的な役割が必要だった」

・防災計画では津波浸水想定域の居住者約1万人のうち9割は親類縁者の支援が受けられると仮定し、残る方に対応できるように食糧等を備蓄していたが、現実の避難者は2万人だった

・友好都市の目黒区には食糧、毛布、ストーブの提供を依頼。たまたま東京方面にいた気仙沼の民間トラックが物資を積んで帰ってきてくれた

・送られてきた玄米を米穀店で精米するため、発電機をレンタルして取り寄せた

・廃止したばかりの青果市場を支援物資のストックヤードとした

・最初は職員が物資の整理をしていたが、途中から自衛隊やプロの宅配業者が加わり、物資を円滑に回せるようになった

・季節の移り変わりにより、必要な物資だけでなく不要なものも多く、衣類や日用品は一関市室根の体育館を借りて保管し、時機を見て各地区で無料配布なども行った

・他自治体からの支援は断らないことを基本とした。4月中旬から5月末までがそのピークだった

・外部から支援が入るまでに2、3日間は職員で協力して危機を乗り越えてほしい

・支援はもらう一方で、必要なものを十分に伝えられなかった。必要なヒトやモノを把握し、効率よく供給するための中間的な役割が必要だと感じた

・携帯電話会社が市民用に携帯電話2、3台を貸してくれた。1人5分のルールをつくった

・明石市から届いた物資の箱に「がんばろう気仙沼」のステッカーが貼ってあった。デザインが気に入り、ポロシャツを作成して職員や応援職員で着用した

・支援の衣料品は気仙沼西高校体育館へ移して保管した。男女別、大人用・子ども用に仕分けしてたたんだ。最初は個人から提供された中古品が多かったが、徐々にメーカーから新品が届いた。4月下旬から市総合体育館の二階に移したが、数百人に協力してもらいトラックで何往復もして運んだ。最初は見込みで避難所に衣料品を送っていたが、オーダー制で配送するようになった

・物資配送など民間のノウハウを生かせる分野は民間業者へ委託することも必要

・市役所に設置した物資集積スペースが満杯となり、旧青果市場に移った

・当初はフォークリフトもなく、30人体制で24時間手作業でトラックから物資を降ろし、場当たり的に積み上げていた。配送用の軽トラックは1台だけで、食糧を届けられなかったが、2日後から地元の運送会社が手伝って近くの避難所へ配送できるようになった

・19日ごろに自衛隊に窮状を訴え、翌朝から支援に入ってもらい、物資置き場の配置・動線を設計し、在庫管理など物流センターとしての体裁が整った

・3週間泊まり込んで24時間体制でトラックからの荷下ろしなどを行った職員もいた

・20日ごろに大手配送事業者が話し合い、支援を担当してくれることになった

・支援物資の受け入れは経験したことがない重労働だった

 

ボランティア受け入れ 「バックアップ体制を」

・社会福祉協議会が被災したため、市企画部でボランティアの受け入れ業務を2週間ほど担った

・最初は市役所玄関に仮受付を設けてスタートし、市民健康管理センターに移転した

・社協が対応できない事態も事前に想定し、バックアップ体制を検討しておくべきだった

遺体安置所  「可能な限り年上の職員で」

・遺体安置所は可能な限り年上の職員で対応することにした

・火葬は3月20日時点で1カ月先まで予約でいっぱいだった

・ドライアイスを確保して遺体の衛生状態を保った

・火葬が追い付かないため、鹿折公営墓地に208体を埋葬した。改葬は数年後の予定だったが、遺族の要望によって11月19日まですべて改葬した。掘り起こす際には遺体の損傷が激しく、苦労したことを記憶している

・改葬は地元の葬祭業者にお願いした

・市内の葬祭業者が全国の葬祭業者と遺体の搬送体制を構築してくれた。山形、青森、栃木県の葬祭業者が霊きゅう車を運転して駆けつけてくれた

 

情報伝達 「記録することの重要性を感じた」

・エリアメールはシステムダウンしたため、ツイッターで市民に避難を呼び掛けた

・市民の問い合わせに応える手段がなく、被災状況や生活関連情報をまとめた「気仙沼市から各避難所・市民の皆様へのお知らせ」(A3用紙)を各避難所に提示。3月16日から翌年3月末までは毎日発行した

・「お知らせ」の更新作業は夕方ごろから最新情報を収集・整理し、夜中に編集作業、明け方に印刷して朝6時半のミーティングに間に合わせた。ミーティングに参加した職員が避難所に持参した。途中からは救援物資配送センターから各避難所に送った。避難所に掲示した「お知らせ」から情報収集する在宅市民も多かった。公式サイトにも掲載し、市外への発信も心掛けた

・媒体として伝えやすい紙の確保も重要だった

・情報発信の積み重ねにより、地域ブランド調査の情報接触度部門で平成23年、24年の日本一となった

・災害発生時の情報収集と伝達方法を事前に想定して訓練しておけばよかった

・記録することの重要性をあらためて感じた

・情報の共有は風評被害、デマを抑えるために重要だ。強盗団が被災地を徘徊しているという情報は尾ひれがついて流れた

 

仮設住宅 「年代構成を工夫」

・阪神・淡路大震災を経験した自治体からの応援職員のアドバイスで、仮設住宅は高齢者だけの団地にならないため、高齢者世帯5割、若い人の世帯3割、子どものいる世帯2割の構成を目安にした

・仮設住宅の不具合の対応は土・日曜日も関係なかった。維持管理業務を業者に委託していたが、軌道に乗るまでの半年間の対応が大変だった

 

危機管理 「ひとつずつ積み重ねるしかない」

・想定外をなくすことが最大の危機管理である

・復興が迅速だった企業・団体・自治会は日頃からコミュニケーションが良好だった

・危機管理はひとつずつ積み重ねていくしかない

 

人事 「職員にも家族の安否確認の時間を」

・時間が経過すると死亡届や火葬許可、保険、被災家屋の調査や罹災証明発行などの業務が増加し、避難所対応以外の業務に人を充てなければならなくなる。6月6日に職員配置の見直しを実施した

・応援職員は派遣期間が異なるため、どの業務に対応してもらうか整理することが必要だった。縦軸に業務の種別、横軸に時間を記載できるマッチング表、どの時期にどの業務にどの自治体に対応してもらうかのシフト表を作って管理した

・長期的な視点を持ち、職員に定期的に休養を取らせることも必要だと思う

・職員の心のケアにもう少し早く取り組めたら良かった

・職員が災害対応に集中して取り組むためにはモチベーションを保つことが大事。発災直後は無理でも、どこかの時点で家族の安否確認の時間を確保するなどの配慮があるとよい

・総務課は危機管理課のバックアップをしながら、明確に担当部署が決まっていない事項などできることは何でもやった

 

大島 「薬の入手が大変だった」

・振興協議会長を本部長とする災害対策本部をつくり、会議を毎朝開いた。

・民宿や旅館にストックしてあった食糧を避難者向けの炊き出しに提供してもらった

・孤立すると分かっている離島では交通機関や医療体制を事前に考えておくことが必要だ

・薬が入手できずに大変だった

・20日ごろから物資が全国から届くようになった。民間の漁船が物資搬送に協力してくれた

 

財政・会計 「支援金の口座は別に」

・3~4月は契約業務が忙しい時期。まず取り掛かったのは契約解除の手続きで、入札が行える状況ではなかったので22年度の委託先に暫定的に数カ月分を随意契約して業務を継続してもらった。庁内の職員からは契約に関する相談や問い合わせが多かった

・入札が再開できたのは通信手段や道路が復旧した5~6月ごろで、測量や設計の業務が多かった

・通常の契約業務が行えない場合、できるだけ見積書をとるとともに業者との協議メモをしっかりとっておくことが必要

・財務規則は大災害を想定していなかったため、大震災の場合は契約手続きの事務を簡素化するなどの対応ができればいい。簡略化しすぎると統制が取れなくなるため、バランスを考慮した対応策の検討が必要

・津波と停電により銀行のオンラインが全て停止した。市内業者への支払い業務を続けられるように被災していない市外の店舗を指定金融機関として対処できるように調整した

・古川支店まではデータのオンラインが動いているというので、当面の間は古川まで出向いた現金を出金することにした

・被災して通帳をなくした人が多く、金融機関には通帳がなくても10万円を限度に払い出しをお願いした

・支援金・義援金の受け入れ口座に国・県・企業から通常業務での入金があったため、額面だけでは判別できず、今後は支援金・義援金の口座は別に設けた方がいいと思った

・義援金を毎月必ず振り込んでくれる人がいた。口座番号が分かっても住所が分からない人もいて、お礼を伝えたいと思ってもできなかった

 

■がれき 「市町村が処理することになって愕然」

・市町村が災害廃棄物の処理をすることになって愕然とした

・がれきの処理は防災計画で建設部の仕事だったが、専門的に取り組まなければならない事業が山ほどあり、市民生活部廃棄物対策課が主体となった

 

産業 「被災地に即した制度を」

・できるだけ事業者側に立って交渉したが、国への電話が億劫になったこともあった。官僚の判断は人によって変わった

・津波で書類もパソコンもダメになった部署、家族が犠牲になった職員もいる中で、県に平時の仕組みで報告を求められることに疑問を感じた。非常時に何を優先するべきか被災地目線で考えるべきだ

・被災地の要望事項をきちんと国に伝えていくことで、被災地に即した制度がつくられる

・仮設店舗での営業の終わりが定まらない中、事業者はどのような事業計画を立てればよいか検討が難しかったと思う

 

建設・土木 「市民が知りたいのは、いつどうなるか」

・最初の指令は市立病院へのアクセス道路の確保だった

・土木課専用の無線機はとても役に立った

・5月ころから再建を目指して内陸に土地を取得いる動きが増え、住民や事業者から市道境界の確認依頼が増えた

・道路啓開は困難だったが、高齢の方から「戦争のときは上からさらに弾が飛んできた。今度は飛んでこねえから大丈夫だ」と言われた。その言葉が今でも忘れられない

・土地所有者が被災している場合、連絡が大変だったが、地域の方々に協力してもらった。地域のつながりに助けられた

・被災していない市街地の未利用地もあったが、そこに仮設住宅を建ててしまうと本設住宅が建てられなくなるので、そういう所はなるべく避ける方針だった

・多くの庁用車が津波で流されたが、建設部の車は高い場所にあったので利用可能だった

・電話で高齢の婦人から「高齢の主人を仮設ではなく自宅の畳の上で最期を迎えさせたい。被災した場所に戻り、すぐにでも家を建てたい」という切実な声が担当として胸に刺さった

・別の事業で同じ地権者と話し合いをすることもあった。被災者だけでなく地権者のカルテや情報システムが必要だ

・市民が知りたいのは「いつどうなるのか」だったが、それを示せるまで時間がかかった

・県に建設依頼する仮設住宅の候補地は10件調査してもOKが出るのは2、3件程度だった。候補地の確保は四六時中気にしていて何度も夢に見た

・復興庁は防災集団移転と災害公営住宅の造成費用を1区画当たり2千万円程度に抑える方針があったが、実際には4千万円にも5千万円にもなり、理解を得るのに時間がかかった

・今後の住まいの考え方について十分に説明できたとは思えない。一方的に問うだけになって計画策定してしまったのではと感じている。もっと頻繁に時間をかけてでも市民一人ひとりと対話から本音をじかに聞きながら、互いにもっと満足できる計画都市、新しいまちづくりを進めることが必要だった

 

ライフライン 「電話が回復すると一斉に鳴った」

・マニュアル通りに、水道事務所にあったすべての公用車を国道45号安波トンネル前パーキングへ移動した。避難開始ぎりぎりまで給水車に給水した職員もいた

・水道事業所は被災したが、新月浄水場の管路図などを紙ベースでバックアップしていた。複数の場所に最新の図面を保管しておくことで復旧スピードを速めることができる

・水道を敷設する前に道路舗装の計画が進んでしまうなど、整備の順序を間違えると想定していなかった時間や費用がかかってしまう。地区全体を復旧するため、どの事業をどの順番で実施することが有効かを判断できる総合的な見識力が求められる

・被害が少ない民家もあり、「とにかく何とか水だけは通してくれ。自宅に帰りたい。水さえあれば生活できるから頼む」という声が多かった

・約1週間後に通信が回復すると、一斉に電話が鳴った。市民から通水に関する要望・苦情が多く寄せられた

・ガス課では電話がつながると、料金の支払いなどについて約2千件の電話がかかってきた。他の職員は現場に行っていたため、1人で電話対応した

 

教育委員会 「共同調理場でおにぎりづくり」

・ある日、気仙沼出身の歌手がギタリストと一緒に教育委員会事務局を突然訪れ、職員のためだけに「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。胸にたまっていた何かを洗い流してくれた

・震災翌日から学校給食の共同調理場を利用して米の炊き出しとおにぎりをつくった。多い時期には新月と松岩の共同調理場で1万人近くの避難者へおにぎりを届ける必要があった

・学校再開とともに避難所への食事提供は市内事業所へ委託した。おにぎり製造機があれば対応可能というので、市で調達してお願いした

・公民館は職員数が少なく、1カ月近く泊まり込みで避難所運営に当たった

・地域のまとまりやつながりが成り立っている根本に、打ちばやしや虎舞など地域に根差した伝統文化があることに気付いた

・全ての屋外体育施設が災害対応に利用された。震災から5年がたち、機能が回復したのは大島みどりのふれあい広場とテニスコートだけだった

 

職員の思い 「景色がモノクロだった」

・震災の年の夏の終わりごろに自分の嗅覚の異常に気付いた。匂いを感じなくなり、通院して治療した。一年後の桜の花の色を見たとき、鮮明にその花の色を実感した。それまでの一年は周りの景色がモノクロだった気がする

・水道事務所に勤務していた時にガソリンが半分になったら満タンにすることが励行されていた。その習慣でマイカーをしばらく動かすことができた

・「神様、やりすぎだよ」と思ってしまった。亡くなった人に生かされて、こんなことがあったと後世の人に伝えてくれと頼まれたような気がする

 

市長の思い 「市長の役割は市民を励ますこと」

・市長の役割はマニュアル化されたことだけでなく市民を励ますことだと痛感した

・遺体安置所のお世話は職員にとって一生抜けないトラウマとなった

・6月に魚市場を開けるシンプルな目標でみんな元気になった

・元の状態に戻す「復旧」ではなく「復興」で従来の社会課題を解決したい。その一例が水産加工業の集積だった

 

 

1 Comment

  1. 稲田一作

    都内で勤務していた。阪神大震災のときは、行政の中にいたのでそれなりのお手伝いは出来たと思っている。しかし、東日本大震災のときは、自分たちや会社のことしか考えていなかった。このレポートを読んだら、今更ながら、何もしなかった自分が恥ずかしい。

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