広島平和記念施設の使命【視察報告】

広島視察報告【平和記念施設の役割】

気仙沼市は津波で大きな被害を受けた階上地区において、被災した気仙沼向洋高校の校舎を震災遺構として保存し、伝承施設を併設する計画を進めている。最近になって校舎の保存範囲を拡大する方針が示され、保存の方法や維持管理、伝承施設の役割や展示内容について一層の議論が求められることになった。

そこで注目したのが広島市(人口119万人)である。1945年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾によって、14万人の命が奪われた悲劇を忘れず、核兵器廃絶と世界恒久平和を目指している都市だ。被爆した建物を原爆ドームとして保存するとともに、平和記念資料館を整備するなど爆心地一体を平和記念公園とした。「原爆」と「津波」は異なるが、亡くなった人を悼み、悲劇を繰り返すまいという思いは同じはず…。戦後72年の広島に、未来の気仙沼の姿を探した。報告書の印刷用PDFデータはこちら⇒広島レポート

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■ 原爆ドーム保存決定に20年

1月31日、仙台空港から約1時間半で広島空港へ。さらにバスで1時間先にある広島の市街地に、原爆ドームはあった。平日の午前中なのに、ひっきりなしに見学者が訪れていた。この時期は修学旅行生などの団体が少ないといい、欧米を中心にした外国人の姿が目立った。原爆ドームは写真で見慣れていたためか、津波被災地で破壊された建物に慣れてしまったからか、個人的には感情が高まることはなかった。

原爆ドームの付近では、ボランティアガイドが原爆の恐ろしさを当時の写真を見せながら説明していた。「英語の勉強のつもりで始めたら、広島で起きたことを実際は何も知らなかったことに気づいた」という村上正晃さん(写真)は、大学卒業後もアルバイトしながらガイドを続けているという。原爆ドームが観光地化し、ジャンプして写真を撮る人がいたり、7万人の身元不明者の遺骨が納められている供養塔が注目されなくなったりしていることを心配していた。村上さんらは市の非公認のガイドで、資料館では伝えていない原爆投下まで経緯なども伝えるようにしている。元英語教諭のガイドは5カ国語の資料を用意していた。

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原爆ドームと呼ばれる広島県産業奨励館は1915年に建設された。気仙沼向洋高校と同様、公的施設のために解体が後回しにされ、やがてシンボル的な建物となったものの、解体を望む声もあったことから、保存か解体かの方針を決めないまま放置されていた。保存運動が本格化した契機は、1歳で被爆し、15年後に亡くなった女の子が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう」と書き残した日記に心打たれたからだった。

広島市が1965年から建物の強度を調査し、翌年には市議会が保存を求める要望を決議した。この終戦から20年後の決定は、南三陸町の防災対策庁舎を20年間の県有化して保存することの参考となった。1967年には壁のひび割れや空洞に接着剤を注入し、補強の鉄骨で壁を支える保存工事を行った。1989、2002、2015年にも保存工事を行い、雨水対策などを施した。1992年からは3年ごとに建物の健全度調査を実施している。

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1回目の保存工事の費用5150万円はすべて募金で集めた。2回目も募金活動が行われ、余剰金は原爆ドーム保存事業基金に積み立て、3、4回目の保存工事や保存調査に活用された。計4回の工事費用は3億6千万円に達したが、一般財源からも持ち出しはわずか100万円程度に抑えられている。

■   保存・整備方針を策定

原爆ドームは1995年に国の文化財保護法に基づく史跡に指定され、1996年には「時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑」として世界遺産に登録された。レンガ造りの建物を世界遺産として保存していくため、文化財や建築の専門家13人で構成する保存技術指導委員会が設置された。

被爆60周年を機として、2006年には市が平和記念施設保存・整備方針を策定。それまでは原爆ドームや平和記念資料館などが個別に保存・整備を検討していたが、ヒロシマの役割を踏まえ、長期的な方針を取りまとめた。

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この方針を策定した背景には、被爆地としての平和意識低下に対する危惧があった。原爆投下の年月日と時刻の正答率は、小学生で1995年に56%だったが、2000年には35%まで低下。平和記念資料館の入館者は減り続け、被爆者の高齢化も進んだ。さらに原爆ドームへの落書き、折り鶴への放火、慰霊碑が傷つけられる事件も発生していたのだ。

新たな方針では、平和記念施設の役割を①震災犠牲者を慰霊・鎮魂する場②核兵器廃絶と世界恒久平和を祈念する場③被爆の惨禍を後世に伝える場④平和を学び・考え・語り合う場⑤人々が集い・憩い・行動する場 ― などと設定。原爆ドームについては永久保存を究極の目標に置き、最低限の対策を加えるだけで現状のまま保存し、被爆100周年となる2045年を目標に保存方針の見直しを行うこととした。

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■ 募金運動で保存工事の意義

気仙沼市として参考にしたいのは、基本方針に募金運動の意義が盛り込まれたことだ。最初の保存工事では、「原爆ドームの持つ意義や保存の趣旨から、国内外から平和を願う一人でも多くの人の協力を仰ぐ」という趣旨で募金によって工事費を集めた。財源確保のためだけでなく、募金運動に参加することで世界中の人々がヒロシマに思いを寄せ、平和の願いを新たにすることができるため、今後も大規模な保存工事が必要な時は募金の活用を図ることにした。

原爆ドームの管理は、広島市都市整備局の緑化推進部公園整備課が担当する。光武聡一郎課長補佐、和泉淳之主任技師に気仙沼市の震災遺構へアドバイスを求めたところ、保存・整備方針で「2045年の見直し」を位置付けたように、後世のために区切りのタイミングを設定した方がいいことを教えてくれた。遺構の維持管理という専門的な仕事を担当する職員の確保と育成、個々の問題に部署を超えて対応するためのプロジェクトチーム設置の仕組みも課題として浮かび上がった。

慰霊・鎮魂のための「聖域」として静けさや雰囲気を確保することも重要で、広島ではバッファゾーン(緩衝地帯)を含めた区域を設定した。気仙沼市では施設整備による地域振興を期待し、防災遊具やグラウンドの活用というアイデアもあるが、「線引きは明確にした方がいい」というアドバイスから、区域の位置づけについて慎重な検討が求められることが分かった。

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■   平和資料館が伝える物語

原爆ドームから約300m南にある広島平和記念資料館。延床面積は本館1614㎡、渡り廊下でつながる東館1万㎡。現在は東館がリニューアル中のため、本館のみが見学できる。入館料は大人200円、子ども100円。

展示されているのは熱線や爆風の被害を伝える物、惨状を伝える写真など。注目されていたのは、焼け焦げた弁当や学生服などの遺品だ。遺族から提供されたもので、誰が所有し、どのような物語があったかも説明されていた。300円で借りられる音声ガイドでは、詳しい説明を聞くことができる。ナレーションは吉永小百合さんだ。

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焦土の中から必死で探し当てた遺品は、遺族がずっと大切に保管してきたという。惨劇を伝えて平和を目指す趣旨に賛同したり、遺族が亡くなって提供されたりと、今でも遺影や手記とともに収集が続けられている。

遺品の展示で衝撃を受けたのは、焼け焦げた三輪車だった。三輪車に乗っているときに被爆した3歳の男の子は全身やけどで亡くなった。父親は火葬する気になれず、庭に埋葬した。男の子の頭には鉄かぶとをかぶせ、寂しいだろうと三輪車も一緒に埋めた。戦後40年たって墓所に移そうとしたとき、三輪車も掘り出され、資料館に寄贈された。戦争が奪った日常、残された家族の思いがひしひしと伝わってきた。

広島では、被爆して白血病で亡くなった女の子の折り鶴から、折り鶴が平和を願う象徴となるなど、さまざまな物語がある。気仙沼でも津波の被害や復興を伝えるための物語が大切になる。

■   専門の学芸員7人を配置

資料館の来館者数は1991年に159万人だったが、2004年には107万人減少し、修学旅行で訪れる小・中学生も減っていった。誘致活動によって2015年度は149万人まで回復。3割が団体、7割が個人という比率になっている。施設の役割を重視し、平和学習のための校内学習や修学旅行で訪れた小・中・高校生は無料としている。

施設を管理運営する予算は2016年度で2億9100万円が措置され、そのうち1億8500万円は入館料やホール使用料で補い、一般財源からの充当は1000万円程度にとどまっている。当初は直営たったが、2001年から公益財団法人・広島平和センターが指定管理者となった。入館料や使用料は市の収入としたあと、指定管理料として約2億7000万円を交付する。

資料館の管理や展示のため、広島平和センターは58人の職員を配置している。このうち7人は学芸員で、うち3人は嘱託職員。専門知識を持つ学芸員は、劣化が心配される展示品の管理、遺品の収集や聞き取りに欠かせないという。市側は市民局の国際平和推進部平和推進課(職員6人)の担当となっている。

館内や公園内の解説をするボランティアガイドは197人が登録。被爆体験証言者として45人、被爆体験伝承者として74人も登録している。

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■   指定管理も特別な位置づけ

学芸課長を兼務する加藤秀一副館長は「原爆が投下された時刻で止まっていた腕時計の針が、劣化によって一昨年に折れてしまい、それから保存のためのお金が認められるようになった」と説明。「保存は息が長い仕事だが、指定管理者の契約は4年更新のため、10年後の話に責任を持てない状況になっていることも大きな課題。行政の責任として、長期的な方針を示すことが大切だ」と指摘する。

平和を訴えるためには、14万人が犠牲になったことをイメージで伝えることが大切だという。数字だと実感できないが、一人一人にスポットを当てて遺品を展示することで、悲劇を実感することができる。「自らの体験を伝えられる語り部はいずれいなくなるが、物は残すことができる。その物から人を語ることで、いつまでも伝えていくことができる」。広島市平和推進課主査の柴田綾美さんによると、リニューアルは20年スパンで実施しており、今回は「物に対する被害」から「人の被害」を全面にした展示にすることで、核兵器の廃絶を訴えていく。

指定管理制度は行政のコスト削減ばかりが先行してきたが、震災の伝承や教訓研究のためには専門知識を持つ職員の配置が必要で、ノウハウを蓄積するためにも長く勤めてもらうための待遇が必要だ。広島市の場合は、指定管理の施設の中でも特別な存在だと位置づけることで、学芸員を採用できる指定管理料を実現している。広島平和文化センターには、指定管理者とは別に、修学旅行生への被爆体験講話、こども平和キャンプ、平和首長会議の運営などを業務委託。公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の管理運営も厚労省から委託されている。

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気仙沼市で計画している伝承施設についても、指定管理者制度を導入する可能性が高いが、施設に対してどのような役割を求めるのかを、市として明確にする必要がある。また、施設の運営だけでなく、震災の資料や証言の収集、情報の発信、防災教育などの役割分担についても、直営事業と業務委託を使い分けることも求められる。

津波被災地としての使命は「津波によって奪われる命をゼロにすること」。津波の恐ろしさとともに、避難することの大切さを伝えるための震災遺構と伝承施設となれば、全国からの支援を受けて復興する気仙沼の市民の理解が得られるのではないだろうか。広島では地元の子どもたちが必ず一度は平和記念公園を訪れている。

■ 小学校の平和資料館

平和記念公園の周辺には、小学校の敷地内に2つの平和資料館がある。いずれも被爆した建物を保存し、内部を無料公開している。

鉄筋コンクリートの校舎を保存しているのは袋町小学校。当時は救護所として活用されたという。壁の表面を剥がすと、被爆者の消息を知らせる伝言が見つかり、そのまま公開されている。すぐ外の校庭から、現在の小学生たちの笑い声が聞こえてくる東日本大震災でも、家族の安否情報を求めた張り紙が避難所の掲示板を埋め尽くした光景が蘇り、胸が熱くなった。

本川小学校の平和資料館は、校門インターホンを押し、事務室で記帳してから入館できる。たくさんの人が亡くなった場所でそのまま保存されている施設の中では、当時に思いをはせる時間を過ごすことができた。

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■   気仙沼へのアドバイス

広島視察では、できる限り多くの人に声をかけて東日本大震災の震災遺構について意見を求めた。西日本には復興の情報が届きにくいが、震災に対する関心は非常に高く、震災遺構の保存については、ほぼ全員が「できるだけ残した方がいい」「忘れたくても、忘れてはいけないことがある」と賛同した。

一方、残し方については、「募金などによって市民を巻き込んだ方がいい」「保存された建物は被災地を代表する慰霊の場になる。手を合わせる場が必要」「広島でも原爆ドームの保存に賛否が分かれたが、悲劇を二度と繰り返さないために保存を決めた。そのことは多くの市民の共通認識となっている」「観光客誘致にもつながっているのだが、遺族に対して十分に気を使わなければならない」「入館者数の目標、集客のための需要よりも、施設の使命が最優先されなければならない」「600円の入館料をもらうとなるとそれなりの満足度が求められる。遺構も伝承施設も人に来てもらわないと意味がない」などとさまざまなアドバイスをもらった。

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広島が原爆ドームの保存決定まで20年かかったことは知っていたが、資料館の建設まで10年かかり、いまだに遺品や被爆体験手記の収集が続いていることは知らなかった。被爆地の使命として世界平和を目指すということは、ものすごい覚悟とエネルギガー必要で、始めたらやめられないことなのだということを痛感した。

震災遺構にも伝承施設にも、明確な役割やミッションが必要であることも学んだ。震災後に訪れた兵庫県神戸市の人と防災未来センターは、阪神淡路大震災の資料収集や災害研究に力を入れていたし、新潟県長岡市の長岡震災アーカイブセンターでは防災教育と防災コーディネートの拠点にもなっていた。災害をただ伝えるだけでなく、プラスアルファの役割を持たせることで、それぞれが継続していく力となっていた。

広島ドームは、核兵器廃絶のためのモニュメントであった。気仙沼向洋高校の被災校舎保存の意義にいては「震災の記憶や教訓を伝承する場」「防災・減災教育の拠点」「気仙沼の歴史や地域性を伝える場」と遺構検討会議が報告したものの、気仙沼市としての意思決定、市民との共通認識は不十分だったと反省した。遺構と伝承施設の前に、津波被災地のこれからの使命についてもっと議論が必要だった。そのうえで保存の範囲、伝承施設の内容を検討すべきだった。

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■   広島で考えたこと

広島で考えたのは、現地保存することでしか伝わらないことがあるということだった。映像はどこでも見ることができるし、物は資料館で展示することもできるが、わざわざ現地に来てもらって実感してもらうには被災校舎のようにそのまま保存することが効果的だということが分かった。物を通して犠牲になった人たち、生き残った人たちの苦悩を伝えていくという視点も大切で、映像による説明は最低限にして、五感に訴える施設とすべきなのかもしれない。

東日本では、国が負担する復興予算の制約や期限の関係で、望ましい施設の内容を目指すというよりも、制度に合わせた施設内容になってしまう傾向が震災遺構や伝承施設でもある。市町村ごとに1ずつ国費負担での遺構保存が認められたため、同じような施設がバラバラに計画され、競合を恐れる事態にもなった。しかし、被災地の使命を認識すれば、遺構はできるだけ多い方がいいし、本当はもっと自治体間で連携していかなければならない。震災遺構のネットワークづくりは復興庁の仕上げの仕事の一つとしてほしい。

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広島では世界平和のために毎年10億~20億円以上の予算を用いていた。一般会計の予算規模が5000億円程度なので、単純計算で0.2%。気仙沼市の財政規模なら6千万~1億2千万円に相当する。全国の支援によって復興することに感謝し、津波による人命被害をなくすために将来にわたって続けてもいい負担の規模についても、これからしっかり議論していきたい。被災した世代から、震災を知らない世代へのメッセージを添えて、震災遺構を保存することが、私たちの役割である。

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