中越メモリアル回廊から震災遺構を考える【視察報告】

気仙沼市では、気仙沼向洋高校の被災校舎を震災遺構として保存することが検討されています。震災の記憶や教訓を伝承するためです。結論を急がなければならないので、急きょですが新潟県長岡市を視察してきました。10年前の中越地震で山古志地区などが大きな被害を受けたまちです。

■4施設3公園を結ぶ回廊

気仙沼市から長岡市までは、三陸道、東北道、関越道、北陸道を乗り継いで約450㎞。車で7時間かかりました。

この地を2004年10月23日夕方に最大震度7の地震が襲いました。3000棟以上の建物が全壊し、68人が亡くなりました。あちこちで発生した土砂崩れの犠牲になった人も多く、母子3人が取り残された車内から2歳の男の子が救出されたニュース映像を覚えている方もいると思います。

■民間組織が一体的な管理・運営

震災伝承のため、大きな被害を受けた長岡市(山古志村も合併)と小千谷市には4つの施設と3つのメモリアルパークが整備されました。この施設と公園を「中越メモリアル回廊」として結び、公益社団法人「中越防災安全推進機構」が一体的に管理・運営しています。

機構にメールで視察を申し込んだら、視察コースを示してくれました。半日コース、1日コースのモデルコースが用意されていますが、目的に合わせて個別のコースをつくってくれたのです。

※全施設を巡るモデルルートです。

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私が最初に訪れたのは長岡震災アーカイブセンター「きおくみらい」です。市中心部、JR長岡駅のすぐ近くにある市役所の2階にあります。長岡市役所は3つの庁舎に分散していて、それぞれ下層階は市民のためのスペースになっていました。まちなかキャンパス、市民センター、ちびっこひろば、多世代健康づくり拠点のタニタカフェなどもあり、まちづくりの面でも注目されています。

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センターは広いフロアが主体で、その床には長岡の空撮写真があります。ところどころにマークがあり、情報端末機をかざすと震災直後の写真、復興情報などを見ることができます。ミニシアター、多目的ホールがあり、団体の受け入れに対応します。入館無料。視察に訪れたのは平日だったので、いろいろな打ち合わせが行われていました。

センターには、機構の事務局もあります。施設の管理や案内だけでなく、防災教育、防災コーディネートも行っています。

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■男児救出現場をメモリアルパークに

車で20分ほど移動すると、妙見メモリアルパークです。

濃川沿いの県道を走行中だった乗用車が土砂崩れに巻き込まれ、当時2歳の男の子が92時間後に救出された場所です。メモリアルパークには献花台が常設されていました。最低限の整備にとどめ、土砂の中に車が残されたままだそうです。

メモリアルパークから救出場所は見えませんでしたが、この献花台には10月になると花が絶えないそうです。中越地震の慰霊の場になっているのです。

 

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■伝承施設で住民交流

いよいよ山古志地区に入り、棚田のきれいな景気を眺めながら、2013年10月にオープンした「やまこし復興交流館おらたる」へ。市役所山古志支所の隣にあった公民館を改装し、2階に震災の記録を展示しています。写真が中心でしたが、再現した仮設住宅集会所もありました。

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人気なのは「地形模型シアター」です。白色の地域模型に映像を映し出す「プロジェクションマッピング」によって、土砂崩れによってできた天然ダム、地域が孤立した理由などが分かりやすく説明されました。1階は交流スペースです。

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山古志の人口は震災によって1100人に半減しました。ただの資料館では運営が行き詰まることが予想されたため、住民との交流を大切にし、何度も訪れるリピーターづくりを目指したのそうです。担当者は「住民が利用しなければ、外の人も利用しない。住民が自然と訪れる仕掛けづくりが大切」と教えてくれました。

施設の運営は、地元住民によるNPO法人中越防災フロンティアに委託され、来場者と住民の交流に取り組んでいます。NPOはコミュニティバスを運行し、各世帯から年会費5千円を集めて、中山間地の住民の足を守っています。

■被災民家をそのまま残したメモリアルパーク

少し離れた場所に、「木籠メモリアルパーク」があります。土砂崩れに伴う河道閉塞によって水没した民家を、そのまま残しました。本当は撤去しなくてはならないので、正確には「保存」ではなく「存置(そんち)」だそうです。建物は3m以上の積雪によって少しずつ破損し、倒壊した民家もありました。

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震災後は余震や土砂崩れへの心配から地区外へ避難し、当初は震災遺構どころではなかったそうです。「思い出したくない」と最初は存置に反対が多かったのですが、道路が復旧し、仮設住宅から出て生活が安定するようになると、賑わいを生む遺構の価値に気付けたのです。最後は区長が積極的になりました。結論の先送りによって、結果的に存置することになったのです。

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そばにある震災復興資料館では、山菜や木工品などのお土産も売っていました。集落は近くの高台に再整備され、住民はかつての自宅が朽ちていく様子を見ながら生活しています。高齢の女性は「毎日見るのは本当は嫌だ。震災の爪痕ではなく、自慢の山菜で観光客を呼びたい」と本音を漏らしてくれました。

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■地震体験が人気の「そなえ館」

小千谷市には、「おぢや震災ミュージアムそなえ館」があります。パソコン学校の跡地を活用し、市民学習センターと併設して整備しました。

ビニールハウスを利用した避難所などが再現展示されているほか、地震動を体験できるシミュレーターなどがあります。防災教育に力を入れていて、備蓄品などの備えを分かりやすく説明しています。

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地震動シミュレーターは、さまざまな揺れを再現できます。震度7の強烈な揺れから、高層ビルの周期の長い揺れまで体験できました。この装置は1500万円ほどして、メンテナンスにも費用がかかりますが、子供たちには人気です。

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入館は無料です。来場者の6割ほどが団体で、ピークは6~7月、9~11月です。新潟観光に訪れたついでに寄る人が多く、自治会の研修、小・中学校と高校の教育にも活用されています。グリンツーリズムで民泊を受け入れた地元家族が、観光客を連れてくるケースも多いそうです。団体は平均30人前後で、最大は120人ほど。大きな団体だと、体験や説明を順番にまわすための待機場所が足りずに困っていました。

■基金活用で入館料無料

施設はすべて無料にできているのは、中越大震災復興基金のおかげです。

国の制度では対応できない復興事業のために、新潟県が3000億円の県債を発行し、10年間の運用益600億円を用意しました。さまざまな事業に活用していますが、震災伝承も対象にしました。

中越防災安全推進機構は、伝承施設の運営だけでなく、地域に出向いた防災教育などにも力を入れており、年間約1億8百万円の予算が必要です。このうち1億3百万円が復興基金から賄われているのです。残り5百万円は物品販売や語り部などの事業収益です。支出の約半分は人件費です。

機構は、ボランティアからスタートした復興市民会議、大学などが一体となって設立されており、伝承のために無理をしてつくった組織ではないということも成功の理由だと思いました。

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■基金事業は期間限定

施設のほとんどは震災7年目の2011年に整備されました。基金で面倒を見てくれるのは10年間で、さらに5年間は県や市が必要に応じて支援し、その後は自立した運営が必要になります。あえて期限を設けたことで税金投入の理解が得られ、自立に向けて意識も高まっているようでした。

なお、4施設の来場者は26年度で計9万人でした。このうち3万5千人が10人以上の団体客でした。

メモリアル回廊というネットワーク化、そして行政と地域の間に中間支援組織の中越防災安全推進機構が入ったことで、震災伝承がうまく進んでいました。震災伝承が「ハコモノ」ではなく、マンパワーであり、施設の維持運営こそが大切であることが長岡の事例からよく分かりました。

また、県の支援が目立ちました。泉田裕彦知事が就任した日に地震が発生し、その復興には知事の強い思い入れがあったそうです。一方、長岡市の金銭負担は月日が経つほど減らせざる得ませんでした。人口28万人、年間予算規模1500億円の都市でも、財政難は同じなのです。それでも、「米百票のまち」はすごかったです。

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※気仙沼市の震災遺構については、4月28日にコンサルタントの調査業務報告書が公開されました。運営主体が不明確なまま事業計画や収支まで見通していますが、長岡の事例と比べると考えられません。遺構保存と合わせて大切なのは、その意義を伝える工夫です。東日本大震災では国の交付金で、1市町1つずつ遺構を保存できるのですが、ネットワーク化の検討はされていません。活用と運営面で、宮城県の主体性もないのが残念です。仮設住宅が残る中、もしかしたら議論のタイミングが早いのかもしれません。

とはいえ、早ければ5月の復興交付金申請に市として間に合わせていくものとみられます。5月11日の市議会東日本大震災調査特別委員会で、市としての意気込み、運営体制、将来負担などをしっかり議論したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

3 Comments

  1. O.M

    先日、お邪魔したO.Mです。
    また、コメントさせていただきます。

    「東日本大震災では国の交付金で、1市町1つずつ遺構を保存できるのですが、ネットワーク化の検討はされていません。活用と運営面で、宮城県の主体性もないのが残念です。」
    という部分には少し驚きました。
    河北新報では、民間が遺構ツアーを検討という記事があったため、自治体でもその熱が高まっているかと思いましたが、先生のお話から察するに、どうもそうではないようです。

    震災遺構問題では現在、遺構が多すぎて自治体間で差別化できていない、という問題点が挙がっています。例えば、教育施設は被災各地で建てられているため、特殊性が出ていないようです。たしか、向洋高校でもそのような議論が取り交わされた、と聞いております。

    そこで、質問ですが、先生は差別化を図るための具体案として、どのようなものをお持ちでしょうか。公では答えられない部分もあると思いますが、よろしくお願いします。

    Reply
    1. 今川 悟 (Post author)

      ご質問ありがとうございます。
      震災遺構は国が復興交付金で初期の保存費用を負担する代わりに、維持管理費用は地元自治体が負担していくことを求めています。県も費用については、復興の最中にあって消極的なようです。
      震災遺構の保存候補を考えた有識者会議が終わった後は、南三陸町の防災対策庁舎を除いて動きはなく、担当者レベルの情報交換会さえ開かれていません。

      差別化のご指摘ですが、気仙沼市では気仙沼向洋高校の被災校舎について、内部に入れる公開方法を検討しています。資料館のようなものも併設し、ガイドにも力を入れていく方針です。

      しかし、震災遺構が競い合うような方向性は好ましくありません。避難ビル機能、子供の避難、復興の象徴、津波の威力など、それぞれの施設の発信力や教訓は異なるのですから、やはりネットワーク化して、被災地全体で来場者をカウントする仕組みが必要だと思います。そういう意味では、中越のネットワーク化は大変参考になります。ネットワーク化には、宮城県のイニシァティブが必要です。

      Reply
  2. O.M

    質問に答えていただきありがとうございます。
    「震災遺構の保存候補を考えた有識者会議が終わった後は、南三陸町の防災対策庁舎を除いて動きはなく、担当者レベルの情報交換会さえ開かれていません。」
    この事実にも驚きました。防災庁舎県有化を推し進めたので、県には震災遺構に積極的と勘違いしていました。先生のおっしゃる通り、県が音頭を取った自治体の枠を超えた取り組みを、私も期待したいです。

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