震災20年後の神戸から学ぶ【1.17~3.11の絆】

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から20年。その教訓を一つでも気仙沼の復興に生かすため、神戸市を訪ねて来ました。東北から見れば、すでに復興が終わっているようでしたが、心の傷はまだ癒えていませんでした。

仙台空港から伊丹空港まで1時間ほど、そこから神戸市中心部の三ノ宮まで直通バスで40分。時間的には意外なほど近くに神戸はありました。今回の滞在は3日間。早めに予約した割引があり、飛行機代とホテル代2泊分で計3万5000円に抑えられました。

●人と防災未来センター

最初の目的地は、兵庫県が震災7年後に開設した「人と防災未来センター」。これまで600万人が訪れています。震災の経験を伝承するための展示コーナーをはじめ、資料の収集・保存、研究、若手研究者や自治体の災害対策職員の育成拠点にもなっています。

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入館料600円を払って、最初に案内されたのは「1.17シアター」です。震度7の地震によってビルや道路などが破壊されていく再現映像を迫力の画面と音響で7分間流します。上映が終わると、震災直後のまちをリアルに再現したコーナーへ。崩れたアパートやつぶれた車が展示され、「誰かいますかー」という叫び声が聞こえてきます。次のコーナーはでは、実際の映像で復興に至るまでの様子が紹介されていました。

「復興への道のりは誰もが同じではありません」「復興は震災を忘れることではありません」。展示コーナーの壁に書いてあった言葉です。

東南海の津波の高さも表示してありました。

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震災20年の前々日だったからか、小・中学生が団体で見学に来ていました。ほとんどのコーナーが撮影禁止だったので写真はありませんが、震災の記録コーナーに展示してあったのは、5時46分で止まったままの時計、つぶれたハーモニカなど、その物からドラマを感じさせるものが多かった気がします。

近くで見学していたおばさんたちが「ひとりぼっちになった4歳の女の子はどうなったんだろうね」と気にしていました。家族が全員犠牲になった女の子の話は有名なのだそうです。テレビや新聞の震災20年特集も、復興の課題よりも遺族のその後に力を入れていました。やはり、記憶に刻まれるのは人の物語なのです。

センターの中には、無料で利用できる資料室があります。所蔵する資料は20万点超。資料室で閲覧できるのは4万点ほどの資料ですが、気仙沼の復興に生かせるものがたくさん見つかりました。

特に気になったのは、震災10年目のアンケート結果です。被災者の3人に1人が震災前に住んでいた地区に足を運んでいたり、復興公営住宅に住む人の8割が年収200万円以下だったり、さまざまな課題が浮き彫りになっていました。公営住宅は、家賃低廉化措置が切れた後、市による継続策を余儀なくされました。マイホームを再建した人たちも、月日が過ぎると住宅ローンが家計を圧迫していました。

公営住宅の孤立化を防ぐための取り組みで注目したいのは、各戸への弁当配達です。ある夫婦が中心になってほぼボランティアで続けたようですが、毎日欠かせない食をコミュニティーづくりや安否確認に活用したのです。

資料室で見つけた書籍は、震災関連の書籍が充実しているという「ジュンク堂書店三宮店」で購入しました。震災ストレスとケア、復興への備えなど10冊以上をお土産に持って帰ってきたので、あとで各書籍の内容紹介をしたいと思います。

●震災モニュメント

震災モニュメントを見て回りました。

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神戸市役所の近くらある東遊園地には、「慰霊と復興のモニュメント」があります。震災5年に合わせて整備しました。建設費1億5000万円は、市民による実行委員会が募金活動で集めて神戸市に寄付しました。丘の中に半地下の部屋に、震災犠牲者の名前を刻んだプレートが並んでいます。天井はガラス張りで、その上は池です。追悼集会の献花場所になっていて、菊の花が浮かべられます。

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生後4か月で亡くなった娘の名前を、20年過ぎてようやくプレートに刻む決断をした母親もいるそうです。地下へ向かう通路の壁には、寄付に協力した人と企業・団体の名前も刻まれていました。

平成10年から毎年、ボランティアグループによって竹灯籠がともされます。写真は今年の追悼集会の様子です。

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今年は東日本大震災の被災地へ向けて、「3.11」の灯篭も用意されました。2時46分に合わせて黙とうしてくれました。東北へ向けた応援メッセージもありました。

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「希望の灯り」をともすガス灯、地震で止まったままの時計もあります。

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神戸港震災メモリアルパークなは、地震で崩れた岸壁が保存されています。神戸港のコンテナ取扱量はかつて世界6位(いまは50位以下)。展示されている写真からは、水産業に生きる気仙沼が魚市場を優先したように、神戸にとっては港の復活が大切だったことが分かります。

長田区にある「拓也君のお地蔵さん」は、生後4カ月で自宅の下敷きになって亡くなった長男のため、父親が建立しました。崩壊した自宅の跡は更地のままでした。

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●20年の記念イベント

20年に合わせて、さまざまなイベントが行われていました。

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神戸から気仙沼を支援してくれている方々との縁で、「ひょうご震災20年ボランタリー活動フォーラム」と「朝まで神戸復興塾」を傍聴してきました。ほかにも、最長15㌔を歩くメモリアルウォーク、NGOフォーラム、追悼集会などが100以上あったそうです。東日本大震災と絡めた企画も多く、気仙沼からゲストに招かれた人もいました。

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神戸市の追悼の集いでは、20歳になる新成人も追悼の言葉を述べました。

●神戸新聞が伝える教訓

滞在した3日間、地元の神戸新聞から目が離せませんでした。

16日は、攻めの防災への転換を求めた提言を1面トップで掲載しました。「市民主体の復興の仕組みを確立する」「防災省の創設を」「防災を必修科目に」「住宅の耐震改修義務化を」「地域経済を支える多彩なメニューを」「防災の知恵を世界と共有しよう」。

さらに東日本大震災と共有する復興課題として、「復興住宅入居者を孤立させない仕組み」「一人一人の暮らし再建を基礎に」「関連死データ蓄積と幅広い認定に向けたガイドライン」「広域避難者の継続支援」「震災で心身に傷を負った人の支援継続」の五つをまとめていました。

17日は、3万6000人が暮らす復興公営住宅入居者の高齢化率が50%を超え、昨年だけで40人が「独居死」したことを伝えた。人と防災未来センターの語り部44人の三分の二は70歳以上になったそうです。特集は「次代へつなぐ命」。20年も過ぎると、震災の年に生まれた子供は成人になり、子供たちの中には家庭を持って親になる人も増えていくのです。

「創造的復興」という概念や言葉は、神戸で生まれました。

かつて9000億円あった阪神・淡路大震災復興基金は、来年度で底をつく見込みです。

●20年の月日が持つ意味

震災から20年が過ぎた神戸で、災害とは命を奪うものであることを改めて認識しました。

気仙沼は住宅と産業の復興を最優先にしていますが、震災で失われた命に向き合わなければ、心の復興は訪れません。いまはまだない追悼施設を、神戸のように市民の手でつくる方法もあります。

20年も経過すれば、世代が変わり、震災を体験していない人も増えていきます。10年、20年過ぎなければ気づけない教訓もあります。震災への備えを伝え、震災の記録と研究を続けていくためには、人と防災未来センターのような拠点施設が必要です。

今回もっとも考えたのは、20年という節目の意味です。神戸では追悼集会を毎年開いていますが、今年は数倍の人手になりました。20年を経て震災と向き合えた人もいます。それは、子供が大人になり、親になったからです。

震災を体験した子供がいると、大人は震災の話を避けます。亡くなった家族のこともなるべく話題にしないようにしてしまいます。しかし、子供は大人になると、震災のことを知りたがります。あるいは、もともと知りたかったのに言えなかった子供が、大人になって言葉にできるようになります。それが20年という月日だと思います。

気仙沼の20年後は、もちろん復興は終わって、別な課題と向き合っているころでしょう。神戸のように、震災の年に生まれた子供が震災を振り返るかもしれません。20年後の神戸の思いは「笑顔で今を生きる」でした。そのとき、気仙沼で生きる人たちが笑顔になれる故郷を残すことが、我々の役目ではないでしょうか。

 

 

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